化粧をするサル西洋編

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美への執念は昔も今もかわらない
西洋編

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お化粧の歴史が面白いのでもう少し書いてみようと思います
今回は西洋編です。


前回のブログでは、前人類のネアンデルタール人の時代から、交差するホモサピエンスの起源であるクロマニョン人の時代までお化粧は遡るのでは・・・赤の粘土・赤い顔料を体に塗ったのではないのかというおはなしでした!

昔の化粧で一番使われていたのが“赤色”であり、世界中で赤は化粧を代表する色とされているそうです。

赤色のイメージとしては、照りつける太陽や血液・燃えさかる炎など熱や生命力を感じさせる色であり強いパワーを持っているとのことのようです

その強いパワーを持つ赤色を昔の人は「魔よけの色」として使っていたようです。


化粧の現存する遺跡の形では紀元前3000年ごろのエジプト第一王朝の遺跡で発見された、化粧瓶・化粧パレット・手鏡・コール壺です。これが、はっきりとした化粧行為の確認といえる証拠の遺跡となります。


第一王朝とされるナメル王の化粧版 orja.wikipedia

エジプト文明・シュメール文明が現存する遺跡の化粧文化流れの出発点とされています。この頃には樹脂や練り香水が作り出され、エジプト人は香りのよい水で水浴するという習慣があったそうです。

特徴としては目を強調するためのアイメークがよく見られたようです。当時の女性は今でいうアイライン・アイシャドーみたいなもので目の周りを真っ黒に塗っていました。

ヘンナという植物から採取した赤い染料で爪を染めたり、口紅にも使われていました。

目の周りの化粧は目をパッチリ大きく見せるために目を縁取っていたのかもしれません。しかし、これには他の意味があったと言われています。

それは太陽の光を和らげるためや虫よけの実用的なことと信仰のための二つです。今では美しさのためにとする化粧ですが、化粧の始まりは宗教に関連していたようです。

当時のエジプトでは、実にさまざまなものを原料にして化粧品が作られていました。
赤土、カニの甲羅、真珠の粉、アリの幼虫、牛の糞、ミイラの粉、ワニのヘソの緒、コウモリの卵、人間の胎盤などです・・・けっこうびっくりの原料ですが・・・実はいまもそうかわらないのです・・・

そうかんがえると・・恐るべしエジプトの女性の美へのあこがれ・・・

王家の谷から発見された当時の化粧技術書によるとクレオパトラは、頬を赤土で染め、眉を鉛で黒くし、上まぶたはラピスラズリの粉でブルーブラックに染め、下まぶたには緑青を塗り、さらにしわ隠しにタマゴの白身を溶いたものを顔全体に塗っていたとのことです。

紀元前13世紀の新王国第19王朝ラムセス2世の第一王妃ネフェルタリ orja.wikipedia

古代ギリシア・ローマ・・・この時代の化粧はエジプトのものが流行しました。

特に古代エジプトのプトレマイオス朝最後の女王クレオパトラがエジプト式のメークのトレンドを広げました。

美貌を武器に国を守るためローマ軍のカエサルとアントニウスの2人の将軍を虜にし王朝に最後の輝きをもたらした伝説の美女です。
絨毯の中からカエサルの前へ現れるクレオパトラorja.wikipedia

また、ローマでは色白が美しさの基準であったため入浴が盛んに行われていました。

あの大ヒット映画、テルマエロマエの時代背景のころです。

                                          すいません脱線してます

現代で言うパックのようなものも盛んに行われ、鉛白や白亜(チョーク)などが使われていたそうです。胸元の白さを強調するために透けて見える血管に紫や緑色で装飾を施すまでしていたそうです。ライティングにきをつかっていた、在りし日のすずきそのこもびっくりです!

また、スプレニアといわれる付けぼくろが流行しました。この時代の付けぼくろはオシャレが目的と言うよりは、吹き出物などを隠す役割を果たしていました。

そして、贅沢を好むローマ人は香料を大量に使用していたようです。特に貴族たちは髪に付ける香油(バラの花などを植物油に浸出させたもの)を一日に何度も身体に刷り込んで贅沢を楽しむということが流行り、香りが化粧の中心となっていました。

また香油を浴室に持ち込み一日に三度もすりこんでいたといいます。

中世には、キリスト教の宗教的意味で『神が作った物に手を加えてはならない』という教えと『虚飾』の罪の概念により一時廃れることになりました。

化粧はヨーロッパでは進歩せず、むしろイスラム世界で大きく進歩します。

キリスト教の影響で公然と化粧をすることが出来なくなってもなお、特権階級の人々は肌を白く見せる為の努力をしたようです。

ビールで顔を洗ったり、眉を剃って細くし額の髪の生え際を剃って髪を結い上げることで顔の白さを強調したり、極端な場合は瀉血をして人為的に貧血になることまでして肌を白く見せようとしたみたいです。

時代は下り、宗教革命の影響で教会の権力が弱くなった中世ヨーロッパでは、顔に蜜蝋を塗り、その上に白粉を叩くという化粧方法が流行しました。

この化粧のはじまりはイギリスの女王エリザベス1世とされ、戴冠式などの教会の儀式で聖性を高める目的で行われ、また、貴族達もそれをまねしたらしいです。

この化粧の問題点は蝋が溶け、化粧が崩れるのを避けるために、冬や寒い日でも暖房に近づくことができなかったようです。

当時の白粉は鉛白などが含まれていたために皮膚にシミができやすく(鉛中毒)。これをごまかすために「つけぼくろ」が一時期貴族の間で流行したということです。

16世紀には水銀を使った白粉が登場し、肌の皮膚がボロボロとはがれて吹き出物が取れる事から持てはやされたが、水銀中毒により歯茎が黒ずんで歯が抜ける副作用があり、口元を隠す為に扇子が流行したとのことです。

化粧が流行した背景には、イスラーム社会の影響があります。当時のイスラームは科学技術が発達していた上に裕福で、十字軍は遠征先から香水や香油をヨーロッパに持ち帰ってきました。

イスラームから天然痘を持ち込んでしまい、その後遺症である『あばた顔』を隠す為に白粉を厚く塗ることがはやり始めたともいわれてます。

ルネサンス期を迎えるころ、イタリア・スペインを中心に香水が流行しました。これは、入浴して体を清潔に保つといった習慣がなくなり、衛生に気を配るよりも香水で体臭をごまかすために用いられたのです。

香水は欧州全域にも拡大しました。 ベルサイユ宮殿にトイレがなかったことは有名です。
貴族たちは携帯トイレを持ち歩き、用をたしたあと従者が庭に捨てたそうです。

                                  すいません暑いのでかなり脱線してます

また、直接庭で用をたしたりもしました。用をたしに庭に行くことを「薔薇を摘みに行く」という隠語まであったようです。「ベルサイユの薔薇」はたっぷり肥料を与えられ咲き誇ったのです。

そのため宮殿の悪臭を香水でごまかしていたのです。香水は官能を刺激するものとしてだけではなく、いろいろな伝染病(特にペスト)に対して有効な予防薬としても考えられていました。

う~んベルサイユノバラはそれで咲きみだれてたのね・・・(そこか・・)



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